映画『ひゃくえむ。』を観て ― 走ること、生きること

「走る哲学」を描いた漫画の映画化

ときに、みなさんは『ひゃくえむ。』という漫画をご存じでしょうか。
地動説を描いた名作『チ。』で知られる魚豊氏が、陸上競技を舞台に描いた作品です。タイトルの通り、100m走にすべてを懸けた人間たちの物語。

努力・根性といったスポーツ漫画の常套句をあえて外しながら、「なぜ走るのか」という根源的な問いを描いた哲学的作品です。
登場人物たちはそれぞれの葛藤の末に、自分の生き方を選び取っていく。その姿に、読むたびに胸を打たれます。

100mという極めて短い距離の中に、人生の縮図を見せる。
小学生編、高校生編、社会人編と進むにつれ、走る意味も変わっていく構成が見事でした。


「走る理由」は人それぞれ

物語の中心にいるのは、天才的な脚力を持つトガシと、不器用で足の遅い小宮。
才能に恵まれた富樫は、あまりに速すぎるがゆえに次第に熱を失い、
一方の小宮は「現実より辛いことをすると現実がぼやける」と言って走る。

対照的な二人が、それぞれの理由で走る姿に、思わず考えさせられます。
走ることが現実逃避なのか、現実への挑戦なのか。

漫画の中では、理屈や説明を超えた「生きるための疾走」が描かれていました。
それを映画がどう表現するのか――そこに一番興味がありました。


映画版で感じたこと

映画化は難しい題材だと思っていました。
哲学的な問答が多く、セリフだけで成り立つ作品ではないからです。
実際、映画版では一部の哲学的な対話が省略されていましたが、それでも十分に良かった。

とくに社会人編での問答がしっかり残っていたことが嬉しかったです。
その分、陸上競技としての描写が圧倒的に良くなっていた。
トラックを駆け抜ける足音、息づかい、スタート前の張り詰めた空気。
高校時代、私も陸上部で短距離を走っていたので、その映像一つひとつに懐かしさを覚えました。
競技場特有の音や風の感覚まで蘇ってきて、心地よい余韻が残る映画でした。


印象に残った言葉たち

私が特に好きなのは社会人編に登場する海堂のセリフです。

「生まれる時代が違えば万年2着じゃなかったかもしれねぇ。
でも俺は、この時代に生まれて後悔なんて一度だってしたことねぇよ!
無上の目標が毎々鎮座してんだ!全く!人生に!飽きないッ!!」

この一節には、結果よりも「挑戦できる幸せ」を感じます。
勝てなくても、戦う相手がいること自体が人生を豊かにする。

もう一つ印象的だったのは、主人公・トガシの言葉。

「全身全霊で勝負するのは震えるほど怖い。
でもその一瞬のためなら、何度だって人生を棒にふれる。」

すべてをかけて挑む瞬間があるからこそ、次の一歩が生まれる。
その緊張と高揚の繰り返しが、生きている実感を与えてくれるのかもしれません。


映画『ひゃくえむ。』は、単なるスポーツ映画ではなく、
「自分は何に時間を使っているのか」を静かに問う作品だと私は受け取りました。
トラックの上を走る彼らの姿は、どこかで仕事や人生を走る私たちの姿と重なります。

100mという短い距離に、人生の長さと深さを感じられる。
そんな作品に出会えたことを、素直に嬉しく思います。