「ワークライフバランスを捨てる」という言葉に思うこと

高市新総裁の発言にふれて

自民党の新総裁に高市早苗さんが選出されました。
就任直後のあいさつで印象に残ったのが、「これからはワークライフバランスを捨てる」という言葉です。

久しぶりに「ワークライフバランス」という言葉を耳にして、公務員時代のことを思い出しました。
当時は研修や庁内放送などで何度も聞かされましたが、どこか形式的で、現場の実感とは距離がある言葉だと感じていました。
「バランスを取れ」と言われても、それが誰の基準なのか、いつも釈然としなかったのです。


「バランス」という言葉の難しさ

「ワークライフバランス」は本来、働く人が自分の望む生活を選べる社会を目指した理念として生まれました。
理念自体には異論はありません。問題は、「バランス」という言葉が、どこか“均等割り”を前提にしてしまう点にあります。

人生は常に同じ割合で進むわけではありません。
仕事に集中したい時期もあれば、家庭を優先したい時期もある。
10をどう割るかよりも、どちらにも全力を注げる環境をどう作るかのほうが現実的だと私は思っています。

だから、「バランス」という言葉には少し慎重でいたい。
その言葉を誰かが他人に求めた瞬間に、個人の意思が置き去りになってしまうことがあるからです。


「捨てる」と言える立場と覚悟

高市総裁の「ワークライフバランスを捨てる」という発言は、立場上の重責を踏まえた覚悟の表明だと思います。
国家の舵取りを担う立場では、確かにバランスを語っている余裕はないのかもしれません。

ただ、その言葉を他人に当てはめるのは違うと感じます。
バランスを「取る」か「捨てる」かを決めるのは本人だけであり、外から指図されるものではありません。
自分で選べる状態こそが、理想的なワークライフの形ではないでしょうか。


独立して感じる「自分で決める自由」

税理士として独立してからは、働き方の自由度が格段に上がりました。
今日は朝から晩まで仕事をしてもいいし、明日は一日休んでもいい。
それを決めるのは自分自身です。

一方で、その結果もすべて自分に返ってきます。
自由の裏側には、責任の重さが常にあります。
だからこそ、「自分で選ぶ」という感覚がより実感を伴うようになりました。

ワークライフバランスとは、均等に時間を配分することではなく、選択の主導権を自分が持っている状態。
今の私にとっての理想は、まさにそこにあります。